聖なる夜に懺悔する。
今日はクリスマス。
カーナビの機械音声(女性)に「メリー・クリスマス」と唐突に祝われ、今日がクリスマスだということにようやく気付くくらい、僕にとってクリスマスはどうでもいい日である。
街中は人間のつがいで溢れ、ド派手なイルミネーションが夜を不自然に明るく照らす。そんな浮かれきった日に、僕はバイトでサンタの帽子をかぶり道化を演じなければいけない。
ケーキやチキンを楽しそうに品定めするカップルはもとより、主婦や老人、学生からも憐みの目を向けられるし、避妊具を買いに来た若い男性には勝ち誇った顔で見下されることだろう。
しかし聖夜に現れる本当の敵は彼らではなく、結局のところ「どうでもいい」と言いつつも、カップルの何倍もクリスマスという日を意識し被害妄想に陥る僕自身なのかもしれない。
余談ではあるけど、クリスマスと関連して面白い話題が1つ。
12月24日(クリスマス・イヴ)の午後9時から翌日25日(クリスマス)の午前3時までの6時間が、1年間のうちでもっとも性行為が行われる性の6時間などと呼ばれている、らしい。
それを裏付けるように、クリスマスからおよそ10か月後付近にあたる9月は世界的に新生児の出生数が多いのだとか。その統計に非キリスト教国である日本が含まれるのかはわからない。
もし含まれるのであれば、日本の9月生まれのみなさんは聖なる夜に授かった命というよりは、メディアや小売業界などが作りだしたクリスマス商業主義の産物ということになりますね!!!!!(たとえキリスト教徒であったとしても、イエス・キリストの誕生日にセックスするってどういうことだよ!!!!!)
懺悔というほど大げさなものではないのだけれど。
タイトルに即せばここからが本題。
僕の目にははなぜこうもクリスマスというイベントや、イチャつくカップルの姿が憎らしく映るのか。
僕には生まれてこの方、彼女なる存在がいたことがない。つまるところ彼女いない歴=年齢である。でもってこれまで、「ヤラはただけは避けたい」「一発ヤれば人生変わる」という考えにも至らなかった僕は素人童貞ですらなく、真正童貞である。
四半世紀近くを生きながら、ここまで異性との関わりの薄い生活を送ってきたことは少なくとも普通ではない。そんな人間にとって、クリスマスにイチャつくカップルの存在など嫉妬や羨望の対象でしかないのだ。
当たり前のことが当たり前でないという感覚。
僕の周りの人間を見ても、この年まで後生大事に童貞を守り続けている人間は貴重である。全くいないわけではないが、圧倒的マイノリティであることは間違いない。
学生時代に異性と交際し、性行為をする。おそらくこの流れは至極自然なものなのであろう。早ければ義務教育が始まる以前に彼女いない歴=年齢という事態を回避する人間もいるだろうし、中学で童貞を捨てたという話も実際に僕の身の回りでに耳にしたことがある。高校に進学すればその手の話は特に珍しくもなんともなかった。
しかし僕にとってはそうではなかったし、今もその感覚は変わっていない。異性との交際や性交渉はおろか、コミュニケーションの時点でかなりの不自由さを感じてしまうのだ。
なぜ、今の今まで僕はこの感覚を克服することができなかったのか。それはまた次の機会に掘り下げてみようと思う。